初公開!10地区南北28kmの馬瀬を上から見てみた
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午前中は暖かく良い天気でしたので、地区内散策してきました。今日はどこに行ってきたかというと…とその前に。
そろそろ皆さんも馬瀬全体の地理が気になってきた頃でしょうかね(←勝手な憶測)。
西村だの川上だのどの辺にあるか想像つかないと思うのでご紹介します。
下呂市役所 馬瀬振興事務所
例を一つ取ってみましょう。
僕の基本的な勤務地はここですが、住所は岐阜県下呂市馬瀬名丸406番地になります。
つまり中部地方の岐阜県、そしてそのまた真ん中あたりの下呂市、その下呂市の北西部になります。
馬瀬そのものの位置はこちらの記事に載せています。
この"名丸"というのが西村のような集落の名前にあたります。
七里十里
これどういう意味かわかります?
南北7里(約28km)の間に10個の集落があるということです。
下図をご覧下さい。自前で作りました笑
馬瀬川流域にある川上(かおれ)、黒石、数河(すごう)、中切、堀之内、荻原、名丸、井谷、惣島、西村の10個の集落です。
一番下の下山は無住区なので集落として数えないということでしょう。
川上が最北端、西村が最南端ですね。振興事務所は名丸にあるので、ちょうど真ん中になります。
ちなみに川上、西村については過去に触れていますのでぜひ読んでみて下さい!
川上地区の記事。
西村地区の記事。
ところでこの十里、元々はそれぞれ一つの村だったのです…!
旧馬瀬村の変遷
平成の大合併だの聞いたことありますよね?馬瀬も大いにその影響を受けてきました。
江戸時代末期、飛騨高山藩の領地から天領となりました。
そして江戸幕府滅亡後から1875年(明治8年)に合併して馬瀬村となるまでは川上、黒石、数河、中切、堀之内、荻原、名丸、井谷、惣島、西村、下山は一つの村でした。
1884年(明治17年) には川上、黒石、数河、中切、堀之内、荻原、名丸は上馬瀬村そして井谷、惣島、西村、下山は下馬瀬村にそれぞれ分割されました。
1889年(明治22年)上馬瀬村、下馬瀬村が合併され馬瀬村に戻り、その後2004年に下呂市に合併されるまで続きました。
ちなみに馬瀬全体で約100㎢ありまして、これは東京ドームだいたい2100個分に等しいです(わかりづらい)。
まとめ
七里十里:南北7里に10個の集落を示す。
それぞれの集落は元々一つの村であった。
1875年に馬瀬村成立、以後約130年間存続。
それぞれの地区単独紹介記事も書いていきたいですね〜。
ディスカッション
コメント一覧
初めまして。
わたくし、40年前広島よりハワイに移り住み現在60に手が届く歳になりす荻原と申す者です。
実は、数年前過去帳を調べていたら荻原、わたしの元祖は荻原九郎右エ門
天正年間(1596−1615)年に岐阜県より広島に移住とあり是非一度、どんな所か行ってみたいと岐阜の地名と下呂温泉を調べていたら、このサイトにたどり着きました。
馬瀬全区の荻原は、現在の地名のどの辺になるのですか?
また、萩原(ハギ)ではなく荻原(オギハラ)で間違いないでしょうか。
グーグルマップでは、たくさん萩原はありますが荻原がありません。
お返事お待ち申し上げます。
荻原晃
荻原 晃さん
どうもコメントありがとうございます。
調べた末に私のサイトに辿り着いたということで嬉しく思っております。
さて、荻原という地名に関してですが…
まず馬瀬にありますのは「萩」ではなく「荻」であることは間違いありません。
荻原地区の場所は馬瀬の中央部、下呂市役所馬瀬振興事務所があります名丸地区の隣の地区になります。
本件に関しまして、私の方で荻原の地名の由来を調べさせて頂きました。
本来は名丸地区の一部として存在していたそうで、水辺や原野に自生する壬生科多年生草木の生い茂った原野が由来のようです。
特に荻原九郎右エ門といった記録は見当たりませんでしたので、荻原さんと馬瀬の荻原とが関係あるとは確実には言えない状況でございます。
何かありましたらご返信下さいませ。
早速のお返事ありがとうございました。
荻原の由来、九郎右エ門まで調べて頂きありがとうございました。
実は、10月の10、11、12日の二泊三日で下呂温泉へ行きます。
その折一度、どんなところか観ておこうと思いついた結果が、偶然にも現在の下呂馬瀬地区とは不思議なものです。
本当にありがとうございました。
荻原